「ちひろの記念写真」はお葬式などで使われる遺影の写真を撮影する事を考えて作ったプランです。
生前遺影というと、どこか抵抗があったりする事が多いようです。
たしかに「終わり」や「お別れ」を告げる写真のようで、「生前遺影」と言われると僕もあまり良い印象がありません。
なのに、どうして遺影の写真を撮るプランを作ろうと思うように至ったかと言うと
ひょんな事から遺影の写真の撮影を頼まれて写した事が数回あって、その写真が使われたお葬式に参列して
多くの方々に「自分も撮って欲しいなぁ」と言われたからです。
「こんな写真が欲しいなぁ」と言っていただいた方々のほとんどは皆お年を召された方々ばかりでした。
ご近所のお婆さんから頼まれ、その方が亡くなり、そのお友達のお婆さんが道で会う毎に写真の事を言って来ます。
ただ、どうしたら撮ってもらえるのか?と思われているようで
考えてみれば僕の方でも何も窓口を用意しておらず、ただ連絡さえいただければ撮りに伺いますというスタンスでした。
それでは頼む方からしてみたら困ってしまうのだと思い
あらためて「ちひろの記念写真」という名前で遺影の写真を撮るプランを用意したのです。
生前遺影の撮影というと、多くの場合は写真館などのスタジオに行ってライティングのほどこされた場所で
椅子などに座って写真を撮るイメージだと思うのですが
僕は写真館では無いのでスタジオがありません。
また、前述したお婆さんが僕と話をしている時に側に居たお友達のお婆さんに
「あんたも撮ってもらおうよ。普通にいつもの顔で笑ってるんだからさ。ああいうのが良いよ。」
そうおっしゃっていたこともまた、スタジオでは無く出張で写真を撮りに行った方が良いと決断させる
大きな決め手でした。
何度か撮った事のある遺影写真ではありますが最初は僕の祖母でした。
まだ、カメラマンになどなっていない頃(きっと僕が二十歳の頃だと思います。)お婆さんが僕に
「おい、時尚。おまえカメラを持っているのなら、おれを撮ってくれ。」(僕の祖母は自分の事を「おれ」と言っていました。)
「え、なんで?」と聞き返すと
「おら死んだ時の写真が無いからよ。写真を残しておかないとよ。」と。
まだ尻の青い僕は、なんて縁起でもない事を言うんだ。そう思いながら外に出て
上だけ着替えて来た祖母を目の前にしてカメラを構え、少し複雑な気持になりながらシャッターを切りました。
それから8年くらい経ってでしょうか?祖母は亡くなりました。
そしてその写真は遺影に使われました。
今でも仏壇の隣にその写真は飾られていて、僕はその時の様子をしっかりと憶えています。
また、その道はすでに引っ越しをしてしまった以前の東京の家の前で
そして今から30年以上も前の風景で
今その場に立てば、あの頃の思い出はとても良く思い出されると思うのですが
でも、その場はあの時とは全く違う景色となっているはずです。
遺影を初めて意識したのは、たぶんまだ小学校の頃だと思います。
意識と言っても遺影を撮るとかでは無いです。
父の実家に遊びに行った時に、部屋の長押しの上に掛けるよに飾られた亡くなった方々の数々の遺影を見た時
白黒の写真で写っているお爺ちゃんやお婆ちゃん、中にはまだ若いお兄さんのような人。
その背景にある見た事の無いような古い景色。
今でも憶えている写真もあったりします。
子供にとっては少し恐い、不思議な写真でした。
いったいこの場所はどこなのだろう?写っている人は誰なのだろう?
父の実家でその写真を見る度にそんな事を思っていましたが、結局それを尋ねる事はありませんでした。
そして、今また多くの方々の家にお邪魔させていただいた時に見る遺影。
そこには多くの思い出があるようで、そして全く見知らぬ僕が、その写真を見て何かを思ったりするのです。
現在ならば前回の戦争で亡くなった方々の写真もあり
それが遠い過去の事だとは思えないような気持になったりもします。
遺影写真とは、たぶん様々な写真の中でも最も長い時間飾られ、不特定多数の人達に見られる写真で
そこにある写真は後の人々に多くの事を語ってくれるように感じます。
遺影写真はお葬式の時に祭壇に乗るだけの写真では無いのです。
僕が今回遺影写真の撮影をしようと思った背景には、そんな様々な経験が重なったものだと言えます。
それと、遺影写真を撮る時は、できうるならば家族も一緒に家族写真として残したいなとも思っています。
と言うのは、この数十年で写真を撮るという形は大きく変化をして
誰でも写せる「写るんです」というようなインスタントカメラができ、ポラロイドで写真を撮り、デジカメができ、今ではスマホで写真を撮るようになり、本当に手軽に写せるようになったのですが
なかなか三世代一緒で、などの家族写真をあらためて撮りましょうなどという機会が減ったようだからです。
もちろん絶対に家族と一緒に写真を撮らなければいけないと言うわけでは無いのですが
意外と、できるなら一枚くらいは写真を一緒に残したいという方がいらっしゃると思うのです。
そして、短い時間ですが、写真を撮るという遊びの時間を過ごしていただけたら
それもまた、良い思い出になったりするのかな?と思ったりしています。
長くなりますが、もう少しだけ書きます。
実は遺影写真を撮る上で、少し問題になるのが、お爺ちゃんお婆ちゃんの息子さんや娘さんであったりする事が多いようなのです。
それは、きっと、現代の日本の世の中が作り上げた、死が見えない社会(人の死だけで無く)から出てくる気持であって
現代社会で生きているという事を考えると、しかたが無いと言える事なのかも知れません。
でも、少しだけお年を召された方々の気持に寄り添ってみてもらいたいなと思ったりします。
歳を取ったから死が恐く無いとか寂しく無いとか、そんな話は無いと思います。
でも、順番に訪れるものであって、いつかは必ず誰にでも訪れて、それは歳を取っていれ当然順番は早く廻ってくる可能性は大きくて
何となくだけれど、どうせ葬式を挙げるなら良い写真を飾って欲しいなとそう思っているだけなのでは無いでしょうか?
死はしばしのお別れで寂しい事ではあるけれど、嫌わないで欲しいと思うのです。
喜んで死を迎えるなんて事は有り得ないだろうと思うのですが
良い思い出を作って次の世代に残すというのは、とても良い事だと思うのです。
優しげな笑顔の写真を残す、ほんのちょっとの贅沢と、次の世代へのプレゼント。
そんな風に考えていただけたら良いかな?と思うのですが、いかがでしょうか。
最後に「ちひろの記念写真」と名付けた理由を書きます。
「ちひろ」とは、とても広く、どこまでも深く、という意味の万葉言葉です。
「千尋の海」というような形で使われる言葉です。
「ちひろの記念写真」はたくさんの方々の笑顔を残せたら良いなという思いでつけた名前です。
※「ちひろの記念写真」はホームページに値段と撮影時間などが掲載されています。
また、斎場「ジロイム」「カワシマ」「山東会館」さまにパンフレットをおかせていただいています。
その他「勝覚寺」さまにもパンフレットがありますので、お越しの際はご自由にお持ちください。