2011年3月11日は日本という名前の列島に住む人々にとっては忘れられない日となりました。
僕の住んでいる房総半島の外房地域にも非難勧告が出ました。
電気によって生活の多くの情報を得ている私達は地震発生直後の停電によって今何が起こっているのか?を知る術を失い
震源、その後の被害などを想像する事もできずに居ました。
偶然に繋がった携帯電話から友人によってもたらされた情報が「大津波が襲ってくる」でした。
自動車に付いているテレビをつけると、そこには津波に呑まれて行く東北の街が映っていました。
近所の人達はまだ何も知らずに居ました。
僕はすぐに逃げる用意を家族に伝え、近所の人に「津波が襲ってくるので逃げます。」と伝え車を出す準備をしました。
近所の方々は何を言っているのだ?という風でした。
きっと市に勤める人間などから何かあったら知らせが来るだろうと思っているのでは無かったかと推測します。
その後の避難は3月だというのに気温の低い日で、とても寒く、そして何よりも全てを失ってしまったら、どのように生きて行けば良いのか?という絶望感でした。
人が生きるという事は実は様々な「モノ」を必要としている現代なのだと実感させられるのです。
「生きていれば何となる」それはそうなのかも知れませんが、本来はそうであっても現代の社会の現実からはかけ離れた言葉なのだとも痛感させられました。
ただ、幸いにも僕の住む地域の津波は2m程度の高さのもので、壊滅的な被害は免れました。
後に今回の津波のメカニズムを現したアニメーションがインターネット上の動画サイトにあり、それを見ていると大きな津波は一度犬吠埼にぶつかったのです。
犬吠埼を巻くように津波は外房地域に到達したために犬吠埼から遠くなればなるほど波の高さ勢いは小さくなったようです。